人的資本経営の重要性と現代的意義

企業や組織が成功を収めるためには、資金や物的資源だけではなく、「人的資本」が不可欠であるという認識が広まっています。人的資本経営は現代における全ての企業において発展のために重要な視野を提供し、より人が活躍し、充実した生き方を行うための後押しになるような流れであると言えます。今回の記事では、意義の部分を学術的な面まで踏み込んで深めに解説し、人的資本経営によって何が目指されているのかということを考察します。

 

人的資本経営とは何か

人的資本経営の概念は源流としては、経済学者ゲイリー・ベッカーが1960年代に提唱した人的資本論に遡ります。ベッカーの人的資本論は、大きくは個人に蓄積される技能としての人的資本とともに、企業の競争力と成長は従業員が持つ組織独自のノウハウや組織特有の資源を効果的に活用する、それぞれの企業独自の人的資本の上に成り立っていると主張しました。ベッカーの人的資本論は人材育成自体の重要性を認識させるとともに、企業の経営手法としては自社独自のノウハウや特殊性を強めるための内部育成を推進する意味合いを持ちました。

 

近年この「人的資本」という言葉は、社会的な変化が激しく、また多様性が求められる中で大きく拡張され、別の文脈の意味も大いに持つようになりました。政策的・実務的に現在「人的資本」「人的資本経営」の概念が重視されている背景としては、労働環境の変化と組織の価値創造の多様化が大きく影響しています。現代社会は急速な変化と多様性を増し、VUCAVolatility:変動性、Uncertainty:不確実性、Complexity:複雑性、Ambiguity:曖昧性)と表現される変化の激しい現代のビジネス環境に対応するために、人材の活用・活躍がますます重要になっています。そして、特に日本においては人材の活躍を阻んでしまう、高度成長期の成功を成り立たせてきたような「古い働き方」の雇用の常識が根深く、画一的な総合職の労働スタイル・育成におけるOJTの過度の重視、組織への定着を重視し過ぎる価値観、女性の活躍の低調など、様々な要素が活性化を阻んでいるとされています。

組織が持つ、働く人ひとりひとりの仕事へのエンゲージメントや活躍の状態、ダイバーシティ・インクルージョンつまり多様性に関する状態やそれを実現する組織内の制度の状態、人材育成のプランニングや有効性、これら全体を人的資本とみなし、管理・活用することが求められています。

 

人的資本の重要性と測定について

この人的資本の重要性は、日本を含んで国際的に高まっています。特に日本では、少子高齢化による労働力人口の減少が進行しており、労働力不足という深刻な問題に直面しています。このような状況では、一人ひとりの働き手が持つ能力やノウハウを最大限に活用し、持続的な成長を達成するためには、人的資本の管理と活用が不可欠です。

 

こうした人的資本経営を実践するためには、人的資本と見なされる様々な事実を把握した上で、課題設定や課題の優先順位を決定する必要性があります。そのために企業は様々な組織測定を駆使することが求められているのだと言えます。これにより、組織の価値創出の源泉である人的資本を評価し、これを最大限に活用するための戦略を策定することが可能になります。

 

たとえば、組織風土、エンゲージメント、ダイバーシティ、健康とストレス、育成等の領域にわたる組織測定を通じて、人的資本を効果的に管理・育成することが求められています。こうした組織調査について、まず基本的な考え方や歴史的経緯まで踏み込んで理解することで見通しが良くなります。

 

組織調査の歴史と基礎的な視野

前章に書いたような、人的資本経営の要素となる様々な課題を把握するためには、まずは事実の把握が必要であり、組織を分析し、正しい情報に基づいて組織を把握した上で方針を決める必要瀬があります。こうした必要性から、人的資本経営が重視されるようになったこんにち、組織調査・組織分析、またHRアナリティクスやそのツールとしてのHRテクノロジーと呼ばれるシステムの重要性が増してきています。

 

人的資本系を根本的な視野で捉えるために、そもそも「組織における事実の捉え方・分析の仕方」がどのように発展してきたかを捉えることの重要性は高いと思われ、要約して解説をしていきます。

組織に関するデータ分析と組織調査の歴史は会社や組織が生まれた時から始まりました。具体的な時期を明示することは難しいですが、商業活動が複雑になり、組織が大規模になるにつれて、データの管理と解析の必要性が増してきたと考えられます。

 

商業活動の最も初期の形態では、取引は主に直接的で簡単でした。しかし、時間とともに、商品やサービスの交換がより複雑になり、個々の商人や手工業者では管理できなくなりました。19世紀の工業革命期になると、組織は大規模かつ複雑なものとなりました。それに伴い、組織内のデータ分析と人員管理の必要性が増加しました。これらの大規模な組織では、より厳密な財務管理が必要となり、大量の従業員を管理し、生産を効率化するためには、従業員のスキルと役割についての詳細なデータが必要となりました。

 

20世紀に入ると、組織の規模と複雑さはさらに増加しました。情報技術の発展により、データ収集と分析が劇的に改善されました。経営学と人員の組織的な分析は、企業や組織が成長し続けるための重要な要素であり、その進化は、科学的管理から人間関係理論、そして現代の管理理論までさまざまなステージを経てきました。

20世紀初頭、フレデリック・テーラーは科学的管理理論を提唱しました。彼は、労働の効率性を向上させるために、職場の動作を細分化し、最も効率的な方法を科学的に求めることを主張しました。テーラーはまた、労働者の選択と訓練に科学的なアプローチを用い、経験や勘ではなく、データと測定に基づいて決定を行うことを提唱しました。これは、業績の追求と人員の最適な配置を通じて、組織効率を追求する初期の試みでした。

 

その後、エルトン・メイヨーのホーソン実験は、労働者の動機づけと満足度が生産性に大きな影響を与えることを明らかにしました。これにより、「人間関係理論」が誕生し、労働者を単なる生産要素ではなく、感情やニーズを持つ人間として扱うことの重要性が認識されました。これは、組織内の人間関係やコミュニケーションの重要性を強調し、より良い職場環境を提供することで、労働者の満足度と生産性を向上させることを目指したものです。

 

その後、組織がより大きく複雑になるにつれて、より洗練された管理理論が提唱されました。ピーター・ドラッカーは、「管理」は組織の目標を達成するために、人々の活動を効果的に調整する科学であると主張しました。彼は目標設定、組織の構築、労働者の動機づけ、生産性測定など、効果的な管理の主要な要素を議論しました。

 

さらに、現代の経営理論は、組織内の人間行動と組織の性能との間の関係をより深く理解するために、心理学、社会学、経済学などの多様な学問を統合しています。例えば、組織行動理論は、個々の行動、グループダイナミクス、組織構造が組織のパフォーマンスにどのように影響するかを探求しています。こうしたものの延長線上に、後述するエンゲージメント分析をはじめとする様々な組織分析が位置づけられ、人的資本経営を構成する要素となっています。

 

分析手法やツールの発展とHRテクノロジーツール・HRアナリティクス

また、最近では、ビッグデータと人工知能の進歩により、組織分析は更に進化を続けています。これらの新しいテクノロジーは、組織内のパターンと傾向を探求し、新しい洞察を提供することで、組織の効率性と効果性を向上させる可能性を提供しています。

 

そうした洞察の元となるデータ分析を支える人事管理は、HRアナリティクスとHRテクノロジーの進展により、急速な変化を遂げています。これらの技術は、組織内のデータを収集し、その情報に基づいた意思決定を行う新しい手法を提供します。特に、現代の日本では、少子高齢化による労働人口の減少、企業間の競争の激化、働き方の多様化といった課題を抱えており、これらの技術の利用が必須となっています。

まず、HRアナリティクスとは、人的資源に関連するデータを収集・分析し、その情報から意思決定に役立つ知見を引き出すプロセスを指します。例えば、従業員のエンゲージメント、離職率、その他パフォーマンス関連のデータを収集・分析し、これらを用いて人事戦略の策定、成果の評価、問題の特定と対策の立案を行います。このようなデータを活用することで、組織全体の戦略的な意思決定が可能となります。

 

これらの取り組みは、組織が目指すべき方向を明確にし、それに向けて人的資源を最適に活用するための重要な指針を提供します。そのため、HRアナリティクスとHRテクノロジーは、今日の人事管理において不可欠な要素となっています。

 

HRテクノロジーは、人事管理のプロセスを効率化し、効果を最大化するための技術を指します。これには、労務関係の賃金データと従業員データをクロスで管理するようなシステムがまずあり、これは日本の労働慣行のもとで様々なシステムが活用されています。それ以外にも、採用管理システム、パフォーマンス管理システム、給与・福利厚生管理システム、学習・育成管理システムなどが含まれます。HRアナリティクスとHRテクノロジーは、現代の人事管理において非常に重要な役割を果たしています。これらの技術を活用することで、組織は人的資源を最適に活用し、持続可能な成長を達成することが可能となります。

 

具体的な組織分析の代表例

以上、人的資本経営の意義と考え方、また組織調査の重要性について解説しました。また、経営学との関連性や組織分析全体の考え方やHRテクノロジーについて総括的に考察しました。それらを前提として、現在の日本における人的資本経営の実践方法として、行政官庁のガイドラインで言及され、さらに多くのコンサルティング関連の企業でも情報が発信されているものの代表例が下記のようなものです。ただし、ワークプレイス関連の分析はより応用的な内容です。

 

賃金分析・男女のペイギャップ(賃金差)分析・クロス分析

賃金分析は組織の構造を理解する上で不可欠です。賃金はその組織の価値観や働き方、パフォーマンス評価の基準などを反映するもので、それらを経営学の視点から分析することで、組織の深部構造を描き出すことができます。また、賃金格差は、特に男女間での格差など、組織内のダイバーシティや平等性を示す重要な指標ともなります。イギリスやスイスでは、この男女間賃金差の開示が法制度として定められており、人的資本の開示事項の基盤となっています。

 

エンゲージメント・メンタルヘルス・パーソナリティやキャリア分析・複合分析

さらに、エンゲージメントの分析やメンタルヘルス観点での分析も、組織の健康度を評価するうえで欠かせません。高いエンゲージメントを持つ従業員は組織のパフォーマンス向上に寄与しますが、そのエンゲージメントが維持される環境が組織内に整っているかどうかを評価する必要があります。また、メンタルヘルスは従業員の生産性や離職率に直結するため、組織のパフォーマンスを維持するためにはこれらの指標の分析が必要となります。

 

ワークプレイスの分析

そして応用として、ワークプレイスへの着目も重要です。オフィス環境やリモートワークの状況、ABWActivity Based Working)の導入度など、働く環境は従業員のパフォーマンスや満足度に大きな影響を与えます。これらを分析することで、組織の働きやすさや生産性を改善する方向性を見つけることができます。

 

人的資本経営で活用される代表的な組織の分析手法としては以上のようなものが存在します。人的資本経営とは、従業員一人ひとりが組織の価値を創造する源泉であるとの視野に立ち、基盤となる組織風土を基点として、組織として、あるいは個人としての活躍の度合いや環境が組織全体のパフォーマンスを作り出すことを理解し、より改善していくものです。この視点から、組織分析は組織全体の健康状態を把握し、それに基づいて最適な人材戦略を練るための重要なツールとなります。

 

今回は、人的資本経営の1回目ということで人的資本経営の現代的な意味合いと、組織の把握を行う重要性と、主な組織の分析方法について概観しました。次回は、今回列挙した組織分析の手法についてさらに具体的に解説していきます。

ライター紹介
松井勇策

フォレストコンサルティング経営人事フォーラム代表 社会保険労務士・公認心理師

情報経営イノベーション専門職大学 客員教授(専門:人的資本経営・AI等先進雇用対応)

 

時代に応じた先進的な雇用のあり方について、企業向けのコンサルティングや情報発信などを多数行っている。人的資本経営の導入コンサルティング・先進的なAIDX対応の雇用環境整備・国内の上場やM&Aに対応した人事労務デューデリジェンスなどに多くの実績がある。ほか伝統思想と、現代の経営・雇用・キャリアの融合知見を大学院等で研究中。

 

著書「現代の人事の最新課題」「人的資本経営と開示実務の教科書」シリーズほか。

東京都社会保険労務士会 先進人事経営検討会議  議長・責任者、人的資本経営検定 監修・試験委員長。

 

フォレストコンサルティング経営人事フォーラム https://forestconsulting1.jpn.org/

人的資本経営検定

https://www.kaiketsu-j.com/index.php/toolbox/11588-human-capital-basic

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