「人的資本経営」は現代における全ての企業において発展のために重要な視野を提供し、より人が活躍し、充実した生き方を行うための後押しになるような流れであると言えます。前回は、人的資本経営の意義と組織の把握や分析の重要性について概観しました。

 

こうした人的資本経営を実践するためには、人的資本と見なされる様々な事実を把握した上で、課題設定や課題の優先順位の決定を行う必要があり、そのために企業は様々な組織測定を駆使することが求められています。これにより、組織の価値創出の源泉である人的資本を評価し、これを最大限に活用するための戦略を策定することが可能になります。今回は、前回の解説でも列挙した

・賃金分析と男女のペイギャップ(賃金差)分析・クロス分析
・エンゲージメント・メンタルヘルス・パーソナリティやキャリア分析・複合分析
・ワークプレイスの分析
について特に採り上げて具体的に解説します。

 

賃金分析と、様々な組織分析とのクロス分析~人的資本経営の基盤

人的資本経営の一環として、組織内部の賃金分析がまず重要です。賃金の分析の結果として分かることは賃金制度や評価制度の実態はもとより、ダイバーシティ・インクルージョン、つまり様々な属性の働く人の活躍の状態、育成制度の適正性、法令順守の状態などに至るまで、人的資本経営の重要な要素全般に及びます。

 

賃金分析の一部として、男女賃金差の分析が特に重視されてきています。これは重要度の高さから世界中で法制度化されており、組織がジェンダーギャップを明らかにし、この問題に対する解決策を見つけるための手段となっています。欧米ではペイギャップは企業の重要な法的義務ひとつとなっており、日本で2022年以降に急速に整備された男女賃金の差の把握の法制度にも大きな影響を与えています。特にイギリスやスイスの法制度は、厳格さや分析の技術などにおいて有名であり、重要な人的資本の開示事項となっています。


2022年に省令改正され、義務となった男女賃金の差の把握と公表に関する行政の実務文書

さらに、賃金分析は、評価制度の実効性や昇進、ポジショニングの決定、そしてダイバーシティに対する取り組みの効果についての深い洞察を提供します。報酬体系が組織のパフォーマンスや戦略的目標と整合しているかを確認することは、企業の成功に不可欠です。この分析を通じて、企業は報酬体系が目標達成を支援し、従業員のモチベーションを高めるかどうかを評価することができます。

 

また、賃金分析に加えて、風土分析やメンタル観点からのクロス分析も重要な役割を果たします。これらの分析は、組織内部のエンゲージメントや従業員の満足度を評価し、組織の成功に対するこれらの要素の影響を理解します。組織風土の強さや従業員のエンゲージメントレベルは、組織のパフォーマンスと直接関連しています。

 

これらの分析を容易にし、精度を高めるためには、質の高いデータと効果的なツールが必要です。最近では Smart HRやfreeeなどの労務ソフトがタレントマネジメント機能を強化し、これらの分析の基盤となっています。これらのソフトは、データの収集、管理、分析を一元化し、賃金制度や人事労務制度まで視野に入れた組織分析を行う上での複雑さを軽減します。これにより、より具体的で洞察に富んだ分析を行い、組織の人的資本を最大限に活用することができます。

 

筆者が今までに関与した企業での具体的な事例として、ある企業では賃金分析とエンゲージメントサーベイや組織サーベイのクロス分析により、一見属性別に平等に見えた企業で、その平等な結果の要因は評価制度がうまく機能していないからだという理由があることが判明しました。育成と評価の制度に問題があり組織の停滞を生んでいると結論付けられ、人事制度の見直すべき点が明らかになり、見直しの方向性まで結論付けられました。また別の企業では、賃金レベルが慢性的に低い従業員が離脱していくという厳しい環境が明らかになり、マネジメントの潜在的な問題が明らかになりました。

 

これらの事例は、賃金分析が組織の内部状況を理解し、問題を解決するための貴重なインサイトを提供することを示しています。こうした事例は、筆者の出版した「人的資本経営と開示実務の教科書2」は、男女賃金の差を中心とした実務解説書であり、実例等を豊富に掲載しています。賃金分析は組織分析の根幹をなし、その他の補足的な分析と組み合わせることで、組織の全体像をより深く理解することができます。そして、タレントマネジメントが可能な労務ソフトの活用は、これらの分析を行う上での基盤となります。

 

個人を中心とした把握・パーソナリティ/ストレス/エンゲージメントの分析

パーソナリティ測定、ストレス測定、エンゲージメント測定は、人的資本管理の重要なツールとして広く活用されています。

 

まず、パーソナリティ測定についてです。ビッグファイブやMBTI、16PFといったパーソナリティテストは、個々の性格特性を探るための手段として使用されており、それらを応用した適性検査が広く行われています。たとえば、「誠実性」が高い人は仕事の完成度や精度が高い傾向にあります。これはコンサルタントやエンジニアなどの専門職においては特に重要な特性とされています。また、「外向性」が高い人は、営業職やカスタマーサービスといった対人性が求められる職種で活躍することが多いです。パーソナリティ測定は採用時の適性判断、組織内での役割分担、人材育成プログラムの設計などに有効に活用されます。

 

次に、ストレス測定についてです。職場でのストレスは従業員の生産性に大きく影響します。近年法制化されたストレスチェック制度は、組織内のストレス状況を定量的に捉えることを可能にします。例えば、ストレスが高い部署やチームを特定することで、組織は予防的な介入を行うことができます。また、長時間労働や過度のプレッシャーがストレスの原因となっている場合、組織はこれらの要素を改善するための政策を立案することが可能になります。これらは従業員の健康状態の維持、生産性の向上、離職率の低下に寄与します。

エンゲージメントサーベイの結果分析の一例

 

そして、エンゲージメント測定についてです。エンゲージメントは従業員が仕事に対してどれだけ情熱を持ち、積極的に取り組むかを表す指標です。エンゲージメントが高い従業員は仕事のパフォーマンスが高く、クリエイティブでイノベーティブな行動をとる傾向にあります。エンゲージメント測定は組織内のモチベーションを可視化することが可能にします。具体的には、組織のビジョンや目標に対する一致度、上司や同僚との関係性、職場環境など、エンゲージメントに影響を与える要素を評価することができます。これを通じて組織はエンゲージメントを高めるための具体的な行動を取ることが可能となります。

 

これらの測定は、それぞれ個別の価値を提供しますが、組織の人的資本を管理する上で一緒に用いられると更なるインサイトを得ることが可能です。個々のパーソナリティが組織全体のエンゲージメントにどう影響するか、ストレスがパフォーマンスやエンゲージメントにどう影響するかなど、複合的な視点から組織を理解することで、より深い洞察を得ることができます。これら全てが組織分析の一環となり、最終的には人的資本の最適な活用に繋がります。

 

エンゲージメントサーベイの重要性と活用

前章で列挙した中でも、エンゲージメントサーベイは、労働者の働きやすさや仕事に対する熱意、その組織への共感度を測定するツールとして、企業が労働者の意識や意見を把握する手段として使われてきました。特に企業において創出する価値との関係性において実証したデータが豊富なため、人的資本経営において特に重視されるため、実施することが一般化しています。これらのサーベイは企業が労働者のモチベーション、満足度、組織へのコミットメントを深く理解するのに役立ちます。

 

エンゲージメントサーベイの起源は、労働者の満足度調査として20世紀中頃に遡ることができます。それ以来、この種の調査は、労働者のモチベーションやコミットメントを測定するツールとして進化してきました。

 

その中で、特に注目を集めたのがタワーズワトソン(現ウィリス・タワーズ・ワトソン)の調査です。彼らはエンゲージメントの定義を提唱し、組織と労働者の成功に対するその影響を強調しました。彼らはエンゲージメントを「従業員が自分の仕事に対して情熱を持ち、企業に対して誇りを持ち、企業で長期間働く意欲がある状態」と定義しました。彼らの調査はエンゲージメントが高い企業が利益率が高く、生産性が高く、労働者の離職率が低いことを示しました。


エンゲージメントの高低でのセグメントの利益率の比較調査  2012年タワーズワトソン調査を元に筆者作成

 

このような調査結果は人的資本経営の中で注目され、エンゲージメントを上げることの重要性が強調されるようになりました。人的資本経営とは、現代社会に適合した多様な働き方を成立させ、価値創造とリスクマネジメントに関する多様な事実を元に人材戦略判断を行っていくことです。その中で、エンゲージメントは従業員の満足度、モチベーション、生産性を向上させ、組織全体のパフォーマンスを高めるための一部として位置づけられています。

 

エンゲージメントサーベイの活用は多岐にわたり、内容もより幅広いものを含むようになってきています。タワーズワトソンの調査や、深く関わりを持つ、ユトレヒト大学のシャウフェリ教授の定義したエンゲージメントの調査は、12の質問項目などかなり厳格に定義された内容を持つものでしたが、現在、人的資本経営の流れの中で行われているサーベイは、より広がりのある内容を含むようになっており、検証し得る項目も広がりを持つようになっています。現在のエンゲージメントサーベイとは、「組織のエネルギーとしてのエンゲージメントを中心とし、価値創造に関係のある項目を総合的に取得し、人的資本経営の中核に据える複合的な組織調査」だと言ってよいと思われます。組織文化の評価、リーダーシップの評価、ワークプレイスの環境評価など、組織全体の健康状態を診断するための道具として使われます。また、個々のチームや部署のエンゲージメントスコアを比較することで、組織内の問題点を特定し、具体的な改善策を検討することも可能です。

 

これらの視点から見ると、エンゲージメントサーベイは、組織の成功を支える要素を明確にするだけでなく、組織が労働者に提供する価値を評価し、改善するための重要なツールと言えるでしょう。エンゲージメントの高い組織は、労働者が働きやすい環境を提供し、組織全体のパフォーマンスを向上させる可能性があります。そして、その実現にはエンゲージメントサーベイが一役買っています。

経済産業省 主 催 経営競争力強化に向けた人材マネジメント研究会 マーサージャパン資料より引用

ワークプレイスの測定

以上で見たような、組織の測定や、様々な個人の測定に加え、近年ではワークプレイスと環境測定は組織の成功に対して重要な役割を果たしています。従業員の満足度、エンゲージメント、そして全体的なパフォーマンスに直接的な影響を与える要素であり、ワークプレイスの新たな定義と価値が注目されています。

この新たな視点では、ワークプレイスは単なる働く場所以上のものと捉えられています。活発なコミュニケーション、創造的な思考を引き出し、従業員のエンゲージメントを促進する役割を果たします。また、物理的な環境だけでなく、組織の文化や働き方そのものについても考慮され、組織の価値を高めるための重要な要素となっています。

 

具体的には、ワークプレイスのデザインと設計、そしてその使用方法が大きな影響を持つことが認識されています。例えば、オフィスのデザインは組織のアイデンティティを象徴し、従業員に対してその価値を伝えます。また、オープンスペースやカジュアルな会議スペースの提供、共有エリアでのカジュアルな飲食や交流を促す設計などは、組織のコミュニケーションを高め、創造性を引き出す役割を果たします。

 

この観点から、測定の方法としては、従業員の交流やミートアップの頻度、意思決定プロセスへの参加度、情報共有の効率性などが重視されます。また、従業員のアンケート調査やミーティングの観察、社内SNSの活用度の測定なども有効です。さらに、センサーテクノロジーやビッグデータ解析も、空間利用のパターンを把握したり、ワークプレイスの環境が従業員の満足度にどのように影響しているかを評価したりするために利用されています。

 

ワークプレイスに関する近年の先進的な取組の象徴的なものとして、ABW(Activity Based Working)が挙げられます。ABWは、従業員がその時に必要な活動に最適な場所で働くことを促す働き方で、オープンスペース、静かなスペース、ミーティングスペースなど、様々な種類のスペースが提供されます。そして従業員はそれぞれの仕事に最適なスペースを自由に選択します。これにより、従業員は仕事の効率化と生産性向上を実現し、企業はオフィススペースをより効率的に活用することができます。

 

また、新型コロナウイルスの感染流行により、多くの企業がリモートワークやフレキシブルワークを導入しました。これにより、企業は従業員の働き方や職場の環境について再考する必要がありました。この状況は、新たなワークプレイス環境の概念を生み出し、ワークプレイスの役割と価値が再評価されました。

 

これらのワークプレイスや環境測定は、企業が人的資本を最大限に活用し、持続的な成功を追求する上で重要な要素となっています。人的資本経営における測定のあり方として、これらのワークプレイスの要素を組み込むことは、組織全体の成長と持続可能性に対する重要な視点を提供します。

 

組織測定と人的資本経営の全体像

今回は、人的資本経営の基礎となる組織の測定方法にフォーカスして解説しました。人的資本経営とは、現代社会に適合した多様な働き方を成立させ、価値創造とリスクマネジメントに関する多様な事実を元に人材戦略判断を行っていくことです。その重要なプロセスの一つが組織分析だという位置づけとなります。組織分析は、賃金分析、エンゲージメントの分析、メンタルヘルス観点での分析、ワークプレイスへの分析など、組織の様々な側面を深く理解するためのツールであり、それによって組織の実態が可視化されます。しかし、この組織分析はあくまでも人的資本経営の全体像を理解するための手段の一つに過ぎません。組織の深部構造を理解し、それを基に人材戦略を練る際の指標となるものです。

 

最も重要なのは、これらの分析結果を元にした人材戦略判断です。それが組織の成長を牽引し、従業員一人ひとりの働き方や能力を最大限に活かすことに繋がります。組織分析によって得られたデータを基に、戦略的かつ具体的なアクションを取ることが求められます。

 

組織分析は重要な一環でありながらも、人材戦略判断とその実行・改善といったプロセスが人的資本経営の最も核心的な部分です。今後の記事では、さらにこうした人材戦略のより具体的な判断や、今回考察した組織把握の方法のさらに各論等、より広い視野で解説を続けていきます。

ライター紹介
松井勇策

フォレストコンサルティング経営人事フォーラム代表 社会保険労務士・公認心理師

情報経営イノベーション専門職大学 客員教授(専門:人的資本経営・AI等先進雇用対応)

 

時代に応じた先進的な雇用のあり方について、企業向けのコンサルティングや情報発信などを多数行っている。人的資本経営の導入コンサルティング・先進的なAIDX対応の雇用環境整備・国内の上場やM&Aに対応した人事労務デューデリジェンスなどに多くの実績がある。ほか伝統思想と、現代の経営・雇用・キャリアの融合知見を大学院等で研究中。

 

著書「現代の人事の最新課題」「人的資本経営と開示実務の教科書」シリーズほか。

東京都社会保険労務士会 先進人事経営検討会議  議長・責任者、人的資本経営検定 監修・試験委員長。

 

フォレストコンサルティング経営人事フォーラム https://forestconsulting1.jpn.org/

人的資本経営検定

https://www.kaiketsu-j.com/index.php/toolbox/11588-human-capital-basic

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